小さい頃から読書を習慣づけていた私が読書から得たスキルとは?
photographed by Jonathan Emmanuel Flores
「読書」という行為は私にとって、ただ文字を読み、書かれている知識を自分の中に取り込むためや、暇つぶしのためなどといったものというだけではなく、それ以外の別の意味をも持つ。それは、読書により、「書かれている文から書いた人の意図や、文に込められた気持ちを読み取る力」、そして、「文字で相手に正しく伝える力」を養うことができるということだ。
私が強くそう思うようになったきっかけは、相手とのコミュニケーションが文字でしか取ることが出来ないメールやSNSの利用において、相手との意思疎通に齟齬が発生してトラブルになるケースがあるということをメディアでの報道で知ったからだ。テレビの報道ではツイッターという140字以内でしか文字を書くことが出来ないフォームに慣れることで短い文しか書けなくなり、必要な情報を長い文で伝えることが出来なくなったなどということが言われていた。確かにそういった面もSNSでの意思疎通の齟齬によるトラブルが起きるきっかけには関わってくるだろうが、それ以前の問題で、SNSに限らず「文から読み取る力」、「文で伝える力」が低下しているように私には思える。
では、なぜスマホ世代と呼ばれる現代っ子はそれらの力が低下してしまっているのか。そこでようやくテーマにある「読書の大切さ」に触れることになるのだが、現代の子たちはスマートフォンやパソコン、テレビゲームなど周りに暇をつぶす環境が整いすぎていて、そのために本をあまり読まなくなっているからなのではないか。スマートフォンのアプリを思い浮かべると分かりやすいが、ゲームのアプリというのは時間を使うほどのめり込んでいくシステムになっていて、時間を使うほど他のプレイヤーに対して有利になるのだ。こんなゲームがあるのだから、本を読む時間が余っているぐらいならスマートフォンのアプリなどで自分のゲーム内でのステータスを上げるだろう。こう考えるとスマホ世代の人たちが本をあまり読まないということにも、先に述べたような根拠から納得出来るのではないだろうか。
ここまではあくまで推測で話を進めてきたわけだが、この辺りで私自身の話をしておく。私は、他の大多数の子どもたちがそうであると思われているように、寝るときに親から読み聞かせをされ、絵本を一緒に読みながら育ってきた。いつしか自分から本を出してきて読むようになった。ここまでは大体の子どもが経験していることなのではないだろうか。私が同級生との違いを感じるようになったのは、中学3年になり高校入試に向けて授業で小論文や作文の練習をするようになったときだ。周りの同級生の様子を見てみると、たいていの人が最初に数行書いたのみで筆を止めているのだ。テーマはなんということもないとてもありがちなもので、「私が目指しているもの」だった。私を含む数人(今思うとその数人は文芸部に所属していたり、私と同じ図書委員だったわけだが)は手を止めることなく書いていた。その時点で、個人の得手不得手の範ちゅうには収まらない違いが私を初めとする数人と同級生の間にあったわけだが、確実に言えるのは、同級生の大半はすでにその時に携帯(いわゆるガラケー)かスマートフォンを自分が自由に使える物として持っていたということだ。これ以外にもいろいろと違いはあると思うが、すぐに思いつくのはそれぐらいだ。確かに作文や小論文が書けないというのと、文から情報を正確に読み取れなくて、文で伝えられないことは関係がないと言い切られてしまうとそれまでだが、私はその二つにつながりがあるように考えている。長文を書けなければ、短文で情報を伝えるなどもってのほかだとは思わないか。少なくともこの二つにつながりがあるのであれば、先ほど私が述べた、本を読む時間が携帯やスマフォに取られその結果、「文から情報を読み取る力」と「文で伝える力」が低下したということも確かに言えるのではないだろうか。
つまり、私は幼い頃からの読書から、無意識のうちに「文から情報を正しく読み取る力」と、「文で正確に伝える力」という大切な二つの力をもらったのだ。